奈川の歴史

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鎌倉街道と野麦街道

鎌倉街道(鎌倉道)の歴史は古く、鎌倉時代にさかのぼり、越中から飛騨を通り安房峠を超えて祠峠に至り、角が平から入山・稲核松本に出て保福寺峠、碓氷峠、松井田、安中、倉賀野・・・府中へ通ずるのが「上の道」といわれるのが一つの鎌倉街道。

その後、安房峠道が寛政2年(1790年)幕府の命により廃し、信飛の交通は野麦峠一本になりました。野麦街道も鎌倉街道と同様に信飛交通を支えてきましたが1790年以降、公道として認知され交通量も格段に増えました。

5つの峠

奈川は山間地にあり、川沿いに下ってこの地から出る以外は、他の地域へ出るには野麦峠をはじめ5つの峠を越えなければなりませんでした。日本の中でも珍しいといわれる5つの峠に囲まれたところです

  • 【月夜沢峠】開田へ向かう
  • 【白樺峠】乗鞍高原へ向かう
  • 【境峠】木曽へ向かう
  • 【祠峠】当時は栄えた道(現:廃道)
  • 【野麦峠】高根へ向かう

歴史

【三木秀綱】天正13年(1585年)に金森長近に追われ、当時のこの地(奈川)を支配していた古畑家重の家来に角が平で殺害されますが逃げ延びる途中に大野川で桑かごに隠れて追手から逃れたということで養蚕の神として祭られています。

【尾州岡船】奈川は戦国時代以降、尾張徳川藩に属す木曽代官の山村家の支配を受けていました。林業以外に稼業のない山村で現金を稼ぐ主要な稼業が「牛追い」といわれる運送業でした。尾州岡船の鑑札をもらい上州倉賀野、江戸四谷、越後高田、名古屋まで牛の背に荷物を付けて運びました。一人の牛方が4頭から5頭を追い、最盛期には80組400頭もの牛が野麦街道を通りました。

【ブリ街道】野麦街道は一名「ブリ街道」とも言われ、年の瀬に富山湾で獲れたブリが高山で市にかかり、飛騨ブリとなってその多くが野麦街道を通って信州に運ばれました。

【糸引き工女】野麦峠を超えて糸引き稼ぎに飛騨から出る工女さんの話は有名です。時代は明治維新からしばらく経った頃、国は国力を高め列強の仲間入りを果たそうとしている時代。国の重要な産業として発展しつつあった製糸工業、全国各地に製糸工業地帯が作られました。製糸には水を多く使うため諏訪湖のほとりにも日本を代表する一大製糸工業帯が作られました。山梨県からも多くの工女さんがかりだされましたが、それでも足りずおくひだまで求人の手が伸びてきたことが背景で野麦峠を超えた糸引き工女へとつながっていきます。明治中期から大正8年頃まで、女性たちは数日かけて徒歩で野麦峠を越え諏訪や岡谷の製糸工場まで向かいました。工女たちの働く環境は過酷なことに間違いありませんでしたが、徐々に労働環境の改善が図られ、大切な労働者として手厚い待遇を受けました。